福島「みなし仮設」:自主避難9261戸、過半数県外

2015.10.13 00:23|先のみえない避難生活
■福島「みなし仮設」:自主避難9261戸、過半数県外
(毎日新聞 2015年10月11日)


 東京電力福島第1原発事故の自主避難者に無償提供されている「みなし仮設住宅」の昨年末時点の戸数を内閣府と福島県が明らかにした。避難指示区域を除く戸数は9261戸、うち県外は4845戸で過半数を占めた。県はこれまで自主避難者について約9000戸(約2万5000人)と概数だけ公表していたが、市町村別の状況も判明。1000戸以上が自主避難するのは3市、これを含め100戸以上は10市町に広がっていた。【日野行介】


 毎日新聞の情報公開請求に内閣府と県が資料を開示した。みなし仮設は公営住宅や民間賃貸住宅を借り上げたもので、避難指示区域と避難者のいない県西部を除くと県内44市町村の避難者に提供されている。このうち最多はいわき市の2864戸で、郡山市1778戸、福島市1612戸と続く。県外への避難に限ると福島市1404戸、いわき市1194戸、郡山市1064戸の順だった。

 ただ、避難指示区域と区域外が混在する南相馬市のみなし仮設は県内最多の5962戸(うち県外2809戸)で、ここには区域内からの強制避難者だけでなく区域外からの自主避難者もいるとみられるが、今回の戸数には含まれていない。こうしたことから自主避難者の総戸数は変動する可能性がある。


 ◇「打ち切り」決定後ようやく

 自主避難者へのみなし仮設提供を巡っては、福島県が6月に来年度末での打ち切りを決めた。これを受けて情報公開請求したところ、提供期限について福島県と内閣府が協議した今回の資料が開示されたが、昨年9月に同種の資料を請求した際には黒塗り(非開示)だった。

 国と県は打ち切り決定まで、自主避難者に関する情報について「公にした場合、国民の誤解や臆測を招き不当に混乱を生じさせる恐れがある」としてほとんど明らかにしてこなかった。

 自主避難者の交流会を主催し、これまで情報公開請求を繰り返しては非開示とされてきた埼玉県の吉田千亜さん(38)は「自主避難者は孤立しがちで『避難した自分はおかしいのではないか』と悩み続けており、戸数は重要な情報だ。打ち切りまで隠していたのはひどい」と憤る。

 情報公開制度に詳しい田島泰彦上智大教授は「打ち切り決定まで議論の材料を与えないよう隠していたのではないか。避難者と向き合う姿勢がなく、説明責任を放棄している」と批判した。




沖縄県避難者向け借上げ住宅の住み替えについて

2014.04.22 19:03|先のみえない避難生活
原告のひとりが避難者向け借り上げ住宅の住み替えを希望しており、
沖縄県と福島県に対し切実な事情を説明しお願いしてきましたが、
一歩前進したとの知らせが入りました。

生業訴訟では福島地裁で行っている裁判とは別に、原発避難者が
避難先で抱える特有の問題の解決についても個別に取り組んで
います。

全国にちらばる避難者の住み替えについては、福島県庁に生業
原告団の団長や山形支部の方が陳情しに行ってくれました。

すべては原告となった方が声を上げることから始まっています。

以下、交渉にあたった生業弁護団の馬奈木弁の報告より。



4月21日(月)午前11時から沖縄県庁交渉を行いました。
先方は、県民生活課・課長以下3名での対応でした。

県によれば、今回の申しでのケースを受けて、福島県
とも協議のうえ、住み替えのための基準を策定したそう
です。
本年4月1日付で、例外的に転居を認める事例として、

・健康上の理由で居住継続が困難な場合
・家主の都合の場合
・その他、居住継続が避難者に著しい不利益または危険を
 生じさせる場合


の3つを想定し、これらの場合には転居を認めるという
扱いにしたとのことです。

健康上の理由の場合、診断書に、「転居により状況が改善
される可能性がある」といった記載が必要となりますが、
ぎりぎりこの程度の記載であれば、やむをえないかという
か、まあ「可能性がある」くらいなら書いてもらうしか
ないなあと思っています。

沖縄県の基準は、山形県の基準に倣ったものだそうで、
武田さん(生業訴訟原告)をはじめとした、山形での
先行した取り組みが、今回の件の前進にも大きな貢献を
果たしたと考えています。

あわせて、今回、沖縄でも頑張ったことで、例外的にせよ、
運用上の扱いとして住み替えを制度的にも認めるように
なったこと、認めるための基準を設定したことは、評価
できると思います。

今回の件は、本日、理由書と診断書を提出したことにより、
これらが福島県に送付され、福島県が認めると判断すれば、
住み替えられることになります。
沖縄県としては、住み替えを認めて良いのではないかという
認識でしたが、最終判断は福島県にあるとのことでした
(事実上、沖縄県としての意見を伝えることはあるそう
です)。

今回の動きもあって、住み替えの問い合わせや相談が
すでに沖縄県に対して3件あり、本日も1件あったとの
ことでした。

長期化が進むなか、住み替えは一定の割合で問題になり
そうです。
沖縄でも第1号が出ることになりますので、続く人は
だいぶ楽になると思います。
今回の頑張りが、道を拓いたと思います。


okinawasumikae.jpg


4月26日追記:
交渉から3日後の木曜日、福島県よりある原告の方の
住み替えを認める返事がきました。
本人が沖縄県庁の県民生活課へ行って書類をもらい
引っ越し先を自分で見つけて記入し再度申請を行って、
福島県の許可が出ればOKという流れです。
家賃、共益費、仲介手数料、住宅保険料は福島県
からの支払いで、敷金、礼金は避難者負担だそうです。


■東日本大震災から3年目(3) 原発から逃れたけど~母達の苦悩~

2014.03.17 07:46|先のみえない避難生活
故・沖本八重美さんと原告の伊藤路子さんが立ち上げた【つなごう命~沖縄と被災地を結ぶ会】が主催する「おむすび市」などが紹介されている地元メディアの記事です。沖縄のNHKが、記事に出てくる野呂美加さんの「保養を考えるお話会」を「避難中の子育てを考えるつどい」と報道したことに比べ、とても丁寧で正確な報道姿勢です。ご一読ください。


■東日本大震災から3年目(3) 原発から逃れたけど~母達の苦悩~
(2014年3月13日 琉球朝日放送 報道部)

http://archive.is/wcCoW#selection-33.0-33.10


現在、2ヵ月に1度。那覇市民会館で音楽鑑賞をしたり、県産野菜そして手作りのケーキなどを販売する「おむすび市」。
主催するのは、震災を機に東北や関東から避難してきているお母さんたちです。

神奈川県の沿岸部に住んでいたAさん。福島原発事故当時、出産2ヵ月前でした。
Aさん「子供が頭が痛いとかちょっと体調が悪くなり始めてちょうどその時出産だったのであまり詳しく調べることができずにそのままにしてしまった。どんどん悪くなって経験したことのないくらい咳が止まらないとか出てきて・・・。」
体調不良の中震災から2ヵ月後の2011年5月に出産。しかし、生まれてきた子の背中には日に日に大きくなる「しこり」がありました。検査の結果「腫瘍」と診断されましたが、原因は不明でした。依然として咳が止まらないAさんに加え、体調不良を訴える長男、そして生まれてきた二男の腫瘍。なぜ?という不安から様々な所で調べ始めました。

Aさん「そしたら原発の爆発の影響があるんじゃないかというところに行きついてわからないことが今でも多いということがあってわからないならばできる限りのリスクの少ない場所へ移動したり防御できることを自分なりにしてみようと原因を突き止めるより先に、避難しようと決断。(2012年4月)沖縄の病院で次男の腫瘍切除を行ないました。」

Aさんのように子どもの健康被害を恐れて福島県の近隣からも避難している家族は多い一方で、その数は把握されていません。まして、原発事故から3年が経ち、原発避難者は「ただの移住者」として暮らしていることも多いといわれています。
先月、会では86年のチェルノブイリ原発事故により、被ばくした子ども達を20年以上に渡って保養のため受け入れてきたNPOの代表・野呂美香さんを招いて勉強会を行ないました。

野呂美香さん「自分が馬鹿にされようと袋たたきに遭おうとやっぱりこれは放射能のせいなんだ。子ども達を助けたい何とかしてくれということをいってくださるお医者さんがいるのか日本に。3年経って(ガンまたは疑いが)75人も出てるのに。」
野呂さんはすでに福島でも小児甲状腺がんが数多く確認されていることを上げ、チェルノブイリ同様、今後子ども達への健康被害は増え続ける可能性を指摘しました。
参加したお母さんの声「埼玉から来たんですけど埼玉は(原発から)微妙に遠いんですよねだから安全だと思われていて、危ないのはわかってるので(気持ちは)変わらないですよね時間経てばたつほど悪くなっているのもわかるし。」
放射性物質がもたらす健康被害は予測ができないからこそ母親たちは危機感を募らせているのです。おととし10月。沖縄県民医連と医療生協は。避難者からの要請を受けて、無料の健康診断を実施。合計で112人の子どもの甲状腺検査を行ないました。聞き取りによると、その中には経過観察が必要とされた子どもも多くいたということです。

民医連「結果についての学術的な評価が私たちはどうなるのかなと、ただその時の状態を残さないと将来に渡っての治療に結びついていかないので、今の状態を正確に残すのを基本にするしかない。」
しかし、健診から1年半。国からの補助もないことから次の健診は未定。経過観察とされた子ども達がどうなっているかわかりません。
民医連「(検査から)2年目にもう一度やる必要があると言われているんですが今後の健診の方法については(費用を)国が責任を持つべきだと私たちも思っている。」

Aさんはこの健診で長男の甲状腺に液体のたまった袋ができる「のう胞」が確認されたと言います。
Aさん「元気なんですが健康診断をするといっぱいチェックが入る。不安を感じたくなくて一生懸命活動しているのかもしれない。」
慣れない土地での避難生活、わが子の健康への不安に加え、原発への懸念や事故への関心は年々低くなっている現状。臨床心理士の伊藤医師は震災から時間が経つにつれ、避難者の健康被害だけでなく心の問題も表面化してくると話しています。

伊藤臨床心理士「時間が経つにつれて避難者被災者の苦しみ価値観も多様になっている。たぶん受け入れる側の価値観や気持ちも多様になっているそこをうまくつないでいくのが時間が経つにつれて難しくなる。避難者の方もそれぞれ悩みや苦悩を抱えて決断しているそれはどの決断が正しいということでもないし一人一人の事情があること。」
県臨床心理士会では、避難してきた母親たちの心のケアをするため定期的に無料の相談会を実施しています。あれから3年。汚染水漏れなど収束の目途が立たない原発事故、一方で人々の原発や放射能への関心や理解は日に日に薄れつつあります。子ども達の健康は誰が守ってくれるのか?母親たちはそんな葛藤の中、我が子の手を握りしめ祈るように生活しています。

Aさん「3年経って5年経ってもしかしたら10年20年(こういう活動は)ずっとやっていかないといけない事なのかなと感じています。」

以上、転載おわり

山崎たつえ松本市議「過剰支援ビラ」

2014.03.01 15:56|先のみえない避難生活
菅谷(スゲノヤ)松本市長を違法公金支出で長野地裁に提訴した
山崎たつえ松本市議は、2012年に「過剰支援ビラ」を松本市で配布していた。

福島県から松本市へ自主避難者した司法書士のブログ記事を転載します。


↓ ↓ ↓

タイトル:過剰支援ビラ
投稿日時:2012年7月25日
http://www.shinanonosato.com/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E/entry98.html


本日、下記のような報道がありました。

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20120725/CK2012072502000012.html
(リンク切れ)

山崎たつえ松本市議が「市内に避難している被災者の支援が手厚すぎる」としたチラシを配布した、という記事です。

これは中日新聞のものですが、地元紙の信濃毎日新聞にも同様の記事が掲載されています。

言いたいことはいろいろありますが・・・。



まず、「被災者への市の負担は水道料金が百七十万円、保育園・幼稚園の利用料が百三十九万円に上る」ことについては素直に松本市に対し感謝いたします。

避難者の多くは本当にありがたいことと感じています。



その上で、今回のこの件、考えてみたいと思います。



1.ソースについて

信濃毎日新聞の報道によると、このビラの作成について「避難者には話を聞かず、東電などに取材して書いた」とあります。

一方的情報だけでこのビラを書いた、と。さらに、その情報は東電から、と。

まずは、現段階で東電の情報を鵜呑みにする、そのセンスに脱帽です。



そして、対立当事者の片一方、しかも強者の側の話しか聞かないで、弱者である避難者を非難するかのようなものを書いてしまう。

政治は強者のためのものでしたっけ?弱者を守ることが政治の役割であると私は習った記憶がありますが。



強者弱者は別としても、もう一方の当事者に対する配慮というものはないのでしょうか?

私人ならともかく、この方、市会議員という公人ですよ?



2.手法の問題について

まぁ、1.はこの方の個人的センスなので百歩譲っていいとしましょう(それでも公人としてどうなのかと思います)。

なぜ、この意見の発表方法がビラ配りなのでしょう?

普通に議会活動の中で行えばいいんじゃないかと思いますが?予算の問題なのですし。

環境問題や社会問題のように、広く一般市民に訴求しなければならない、という問題でもないと思います。



3.賠償について

まず、賠償については、現時点でも、受け取っている人、受け取っていない人、(自主避難等)受け取れない人、といます。

受け取っていない理由は様々です。金額に納得いかない人。納得いってもやり取りがわからない人、そもそも金額の問題ではないんだ、という人。

また、厳密には、自主避難者についても、大人8万円、子ども40万(避難した子どもは60万)という賠償がありましたが、そのことを指しているようにも思えません(ちなみにこれは震災当時福島県の一部区域に住んでいた方全員が対象なので、避難者特有の賠償ではありません)。

いっしょくたに「避難者は賠償金を受け取っている」という記載には違和感があります。



実際、私は所謂自主避難者と呼ばれる者です。

福島での仕事を辞め、長野で改めて業務を再開しました。専門職種だからこそできた選択だと思います。一般の方はそうはいきません。

そんな私でさえ、今の生活は、これまでの蓄えを崩しながらの生活です。ほかの自主避難者は、言わずもがな、でしょう。



4.自立し生活できる支援について

信濃毎日新聞の記事によると、「自立し生活できる支援をするべきだ」と主張されています。

大賛成です!

ただし、今はまだその段階ではない!!!

避難者はあくまで避難者です。一時的にその場にいるにすぎません。そのような状況で、今後どうするか、ということを決めることができるわけがありません。

いつ離れるかもわからない土地で、自立し生活できるだけの基盤を作ることができますか?



おりしも、直前の7月20日に、政府から「避難指示区域の見直しに伴う賠償基準の考え方」が発表されました。

http://www.meti.go.jp/press/2012/07/20120720001/20120720001.html

それをうけて、24日に東京電力から避難指示区域の見直しに伴う賠償の実施についてというプレリリースが発表に。

http://www.tepco.co.jp/cc/press/2012/1206810_1834.html

しかしながら、実際の賠償受け付けの開始は全くめどが立っていないのが実情です。作業量が膨大すぎます。前例もありませんし。

http://www.minpo.jp/news/detail/201207252673



とはいえ、この賠償が始まれば、避難者はある程度まとまったお金を手にして、それをもとに生活再建をすることができるようになると思います。生活再建や、それに対する自立支援は、それから必要になることです。

まずはまとまった賠償を受け取りましょう。そして、できれば1年程度の熟慮期間を設けましょう。

そして、後悔が無いよう、避難者がどのような生活再建をするか判断し、その判断に基づいた生活再建に対し、行政はできる限りの支援を行うべきです。

 現段階で、避難者に自立を求めるのは、酷というものです。

※以上、転載おわり


福島中通りから新発田市に自主避難してきているお母さんの話

2013.10.19 22:37|先のみえない避難生活
■4歳の子供とふたりで福島中通りから新発田市に自主避難してきているお母さんの話

太陽のイビキ ‏@taiyonoibiki 氏の2013/10/16の連続ツイートから全文転載


「ある自主避難者の証言」

~4歳の子供とふたりで、今年1月に福島中通りから新発田市に自主避難してきているお母さんのお話です。 2013年10月5日(土)pm7時から~ 新発田市きやり館あやめの間


 私は、今年(2013年)1月、福島県中通りO村から4歳の子供と二人、新発田市に自主避難してきました。O村には、祖母、父、母、兄を残してきました。 私のふるさと、福島県安達太良郡O村は、福島第一原発のほぼ真西約40キロのところに位置しています。盾のように連なる安達太良連峰西側の緩やかな扇状地の上に拓かれた村でした。扇状地に湧く豊かな水ときれいな空気と東南方向から降り注ぐ日光を利用して、米、野菜を始めとする農業が栄え、農村としては珍しく、わずかずつですが、人口も増えていました。

他のところはみんな合併してしまいましたから、安達太良郡で今でも村として残っているのはO村だけです。私はそのことをとても誇りに思ってきました。でも、今は飯館村に次いで汚染が激しいところです。


※太陽のイビキ氏より重要な訂正:
すみません。僕は、O村を「安達太良連峰西側の緩やかな扇状地の上に拓かれた村」と書きましたが、事実は、「安達太良山東側の緩やかな扇状地の上に開かれた村」というのが正しいです。もし、O村が山の西側にあったなら、風が東から西に吹いた時でも、山が盾になって防ぐので村の放射能汚染は深刻ではなかったでしょう。しかし、実際は東側にあるため、逆に風に運ばれた放射能は山に突き当たって、その東側に大量に降り注ぎ、扇状地を汚染しました。土、森、川、湧水を汚染したのです。そして飯館村に次いで最も汚染された場所になってしまいました。ご指摘ありがとうございました。 2013.10.20



 これから私がお話しすることについては、人によって意見の相違があり、絶対だとは言えません。あくまでも、私個人の見方だと思って聞いてください。

 私は、原発や放射能のことについてほとんど何も知りませんでした。ただ、以前、私が勤めていた会社の上司が脱原発だったこともあって、他の人よりはほんの少しだけですが、意識していたかもしれません。その上司がよく言っていたことは、「ベントという言葉を聞いたら危ない。すぐ逃げろ!」でした。でも、私がその言葉を聞いたのは、事故が起こってから数ヶ月も経ってからでした。

私が引っ越しを考えた最初のきっかけは、3月12日に1号機にヘリコプターで放水(注:自衛隊ヘリコプターによる放水は2011/3/17、3号機に対して行われた)しているのをテレビで見たときで、それから、汚染水をオガクズで止めるとか言っているのを聞いて、ますます怖いと思うようになりました。でも、震災で水道もガスもストップしていたときは、みんな外で行動していたわけですよね。

 3月15日から25日まで、私は群馬県の親戚の家に避難していたのですが、そのとき、赤城山が真っ黄色になっているのを見て、とても不気味に思ったことを覚えています。後で聞いたことですが、花粉というのは放射線を浴びると大きくふくれるのだそうです。あんなに離れたところにも放射能は届いていたのですね。

 今でも後悔していることは、なぜあのときすぐに引っ越さなかったかということです。そうすれば、子供を被爆させないですんだのにと思うと、とても罪悪感を感じます。

 すぐに決断できなかった理由は、私がそのとき仕事のために1年間の在宅業務の研修を受けていたからです。私はシングルマザーなので、自活するためにどうしても収入が必要でした。放射能への恐怖はありましたが、どこか認めたくないという気持ちもあり、少なくとも1年はがんばろうと思ったのです。

 でも、その頃から子供の具合がだんだん悪くなっていきました。病院に連れて行くと、風邪と診断されました。でも、いつまでたっても咳が止まらず、だるそうにしており、反対に悪くなっていくようでした。

 あるとき、除染の作業をしていた人から「ここは口で言えないほど汚染されている。俺ならこんな所には絶対に住まない」と言われました。役場ではガイガーカウンターの貸し出しをやっていましたが、役場の人から「地表から1メートル以上離して、30分以上そのまま立っていなければいけない。それにあくまでも目安で正確な数値は出ない」と言われました。

 妹夫婦が、すでに新発田に引っ越していて、電話をすると「今すぐ、引っ越しておいで」と言います。反対に、祖母や父母や兄は「大丈夫だ。神経質になるな」と言いました。私は、シングルマザーで、そのことで迷惑をかけたし、そのぶん世話をするねと約束していたので、それからだんだん放射能の不安を家族に話せないような雰囲気になりました。特に、祖母は幼稚園バスまで子供の送り迎えをしたりして、それを張り合いにしていましたから、私は子供の体のことと板挟みで両方を裏切っているように感じました。

 村の中で、だんだん放射能について口に出せない雰囲気が広がっていきました。うっかりそのことを、友人に話して、「そんな気弱なことでどうするの」と怒られ、人間関係にもヒビが入っていくような気がしました。国は、除染、除染と言っていますが、それは除染して土を保管しておける休耕地のような空き地を持っている家の話です。私の家は、そんな余分な土地はありませんから、除染はしてもらえず、そのままにしてあります。風の強い日には線量計の数値が跳ね上がっていました。

 子供は、もともと外で遊ぶのが好きな元気な子で、ドングリとか草とか石ころとか大好きなのですが、「遊んじゃだめ!」と叱るのが辛かったです。

 家族は家で食べる野菜を全部作っており、それを子供に食べさせるのが楽しみです。その頃から、畑の周りのタンポポがみんな変で、50株も60株も同じ所から出て、その茎が全部くっついて異様に太くなってそこに見たこともないような大きな花が咲いて、気持ちが悪かった。田んぼに稗が大発生しました。あんなことは今までありませんでした。 野菜も今まで見たこともないような形のものがとれるようになりました。桃、トマト、トウモロコシ、タケノコとかそういうものを、巨大なシイタケとか食べさせようとするんです。家族は子供に食べさせるのが楽しみなので、食べないととても悲しそうな顔をするんです。干し柿なんかも、食べさせられました。他の家では、野菜や食物を作るのをやめて、花の栽培に代えたところもありますが、私の家族は頑固で、食べ物を作り続けました。

 そのころ、保養説明会というのがあって、そのなかで、放射能の危険があるので、干し柿は食べない方が良いというお話がありました。私は、このとき、初めて「ああ、放射能のことを心配してもいいんだ」と思って、そうしたら、知らないまに涙が出てきました。 それで、形の変な野菜の放射能を計ってもらおうと思って、役場に持っていくと、「役所が安全だと言ってるのが、わからないのか!母親がそんなことでどうするんだ!」と、逆にどなられました。結局、持っていった野菜は計ってもらえませんでした。

 放射能は禁句という空気はますます強くなり、幼稚園では外遊びを奨励、給食の食材も地元のものを使うという信じられないことが起こるようになっていきました。

 子供は気がつくといつも風邪を引いた状態です。鼻血をしょっちゅう出すようになり、いつも体がかゆいと言って掻いていました。桜祭りのときに、子供が裸足で水たまりに足をつっこんだんですが、数日経つと、足が腫れて膿がたまりました。医者は「風邪ではこんなふうにならないなあ」と言いましたが、放射能の影響については質問することができませんでした。病院でも、放射能を口にすると、鼻で笑われるような雰囲気がありました。クリスマスの日、朝から意識が朦朧として胃腸炎だと言われました。子供の視力がおかしいのに気づいて、医者に連れて行くと、屈折異常弱視だと診断されました。そのときから、子供はビール瓶の底のような厚い眼鏡をかけるようになりました。

 赤ちゃんからセシウムが検出されたお母さんの話を聞きました。母親としての喜びも奪われたような気がして悲しかったです。水道局で働く友人から5月にビーフシチューからセシウムが出たとか、9月に福一牛乳を飲んだ子供が全員嘔吐したとか言う話を聞きました。

 そういう話は口止めされているんですが、耳を塞いでいても自然に入ってきます。毎年、幼虫からカブトムシを孵している人で、みんな奇形になって死んでしまったとか、50代の人で腸にポリープができたり、穴があいたとか、病院に行ったり入院するようになった人の数は間違いなく増えていると思います。

 全く健康だった人が心筋梗塞になって急死したり、葬式が増えました。私の母も、心筋梗塞で倒れました。今までも心臓に問題があったことなどない人です。今はペースメーカーをつけています。バンダジェフスキー博士の講演で、博士が放射能と心臓病の話をされたとき、ああ、これなんだと思いました。

 私自身の健康もおかしくなっていきました。そういえば、ずっと マスクもしないで外で過ごすことが多かったのです。だるくて布団から起き上がることができなくなっていきました。仕事中にも眠くてしようがないのです。吐き気がして、駐車場に車をとめて、ぼんやりしていることが多くなっていきました。

 医者は鬱だと言い、薬が処方されましたが、全く効きませんでした。かえって目眩がひどくなりました。体にいつも弱電流が流れているような感じで、単純な作業をしようとしているのにやり方がわからない。気分転換のつもりで買い物に行って入ったお店で、そのまま訳が分からなくなって何時間も突っ立ているようなことが起きるようになっていきました。死にたくなったり、音楽がなると踊りだしたくなったり、判断ができない、自分でも何をしているのかわからない。放射能で脳をやられたハムスターが死ぬまでグルグル回り続けている映像を見ましたが、私もあんな感じでした。1ヶ月休職しましたが、1ヶ月経っても症状は悪くなるばかりでした。

 それで、どうにもならなくて新発田にきたのです。東電からは一回目に70万円出ました。生活費と引っ越しですぐになくなってしまいました。二回目に17 万円出ました。それと、生命保険を解約してなんとか現金を作りました。

 ところが新発田に引っ越してから、嘘のように健康が回復したのです。書類のことがあるので、O村の役場に電話すると、厳しく詰問されるような感じでした。それで、中途半端ではいけないと思って、新発田市に住民票を移しました。もう、福島に帰るつもりはありません。

 新発田の人は親切ですが、後ろ指を指されているような後ろめたさは感じています。私はカラオケが好きなのですが、福島ナンバーで駐車場にとめていると、なんだか申し訳ないようでいつも目立たない所にとめるようにしています。外食するときもそうです。服を買っても、皮肉を言われるような気がします。避難者同士の気持ちもバラバラになっています。

 明るく振る舞うようにしていますが、先のことを考えると真っ暗になります。 さいとうるりこ(仮名)
 

太陽のイビキ ‏@taiyonoibiki 氏のコメント

「ある自主避難者の証言」レポートを、リツィートしてくださった皆様、心からありがとうございます。避難者の声をじかに聞きたいと僕自身が強く思っていたので、この企画を立てました。けれども残念だったのは、参加者が少なかったことです。わずか8人です。

もともと、この「なくそう原発!しばた」は、バックになんの組織もなく、ただ柏崎刈羽原子力発電所の再稼働反対の署名を集めたり、原発や放射能について本当のことが知りたいという気持ちだけで集まった市民の会ですから、毎週水曜の夕方1時間、3~5人で新発田駅前でビラを配るくらいでしたから、宣伝力が小さいのは仕方ないけれど、8人というのはひどすぎると思いました。有名な人でなければ、ダメだとでも言うのでしょうか。斉藤(仮名)さんが、この話をするのにどれだけ勇気がいったか、それを考えると、なんだか彼女に申し訳なくてどうしようもありません。それで、こんな貴重な話をもっともっとたくさんの人に聴いてもらわなくてどうするんだ!と思って、ツィートしました。口述筆記したものをまとめたもので、抜け落ちたところもありますが、だいたいのことは伝えられたのではないかと思っています。


この連続ツイートに対するmasa ‏@zebra_masa 氏のツイート
福島から新発田に引っ越された(方の証言を紹介する)太陽のイビキ ?@taiyonoibikiという方のツイートを読んでると、やりきれなくなってくるけど、引っ越した事で体調の方はみるみる回復されたらしい。とりあえずは良かった良かった。シーベルトだベクレルだって前に自分の体調は自分が一番分かるものなあ。

@zebra_masa氏に対する太陽のイビキ ‏@taiyonoibiki 氏の応答
ありがとうございます。セシウムはナトリウムやカリウムをたくさん摂ることで、すぐ体外に排出されていくのか、きれいな環境に避難することで(ここだって必ずしもきれいだとは言えないけれど、O村に比べればずっときれいということです)体調も回復するようです。

(さいとうるりこさんは)「皆さんも一刻も早く避難してくればいいと思いますが、避難して来ても生活の困窮がすぐそこに迫っていて、そのことで避難者どうしの関係がギクシャクしているのが、悲しいです。

私は市の方から、嘱託で仕事をいただいたので、だいぶ楽ですが、仕事のない人も多く、皮肉を言われることもありますが、気持ちはわかるので悪いふうにとらないように心がけています。心がバラバラになったまま、故郷に残してきた祖母や父母、兄のことを考えると、とても苦しいです。子どもは元気に遊んでいますが、強度の弱視は治りません。決断を遅らせた私が悪いんだと思います」と、言っていました。


※ずくなし注
福島県中通りO村の最近の空間線量率は、高いところは0.41μSv/hある。


以上、ブログ「ずくなしの冷や水」より全文転載しました。
http://inventsolitude.sblo.jp/article/78443656.html


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東日本大震災の時に首都圏在住在勤。キヨシローの反原発ソングしか知らなかった自分を反省し、当時小3になったばかりの子供を放射能からどう守ったらよいか真剣に学ぶ。1年後、沖縄に移住。2012年12月、沖縄にいる原発避難者のための東電による説明会が行われたが、その開催に尽力したのが避難者支援の市民団体『つなごう命〜沖縄と被災地をむすぶ会〜』だった。共同代表の沖本八重美さん(2013.1.26永眠)は広島原爆の胎内被爆者ゆえ、新たな被ばくの犠牲者に対し深い共感をもって支援した。深刻かつ長期にわたる被害に対し “法廷で東電と国の責任を問う” ことが八重美さんの悲願だった。私も同じ気持ちでこの訴訟の支援を続けて行きたいと思っている。

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